Se connecter翌朝、久瀬湊人はスマホの通知欄を見た瞬間に、静かに目を閉じた。
昨夜のクラス連絡グループは、鳴海すばるの投下したアーカイブURLをきっかけに、思っていた以上に賑わっていたのである。
『また鳴海の布教始まってる』
『夜更かししたくなるからやめろ』
『この人たしかに声いいな』
『真白、見た?』
『転校生にもおすすめでしょこれ』
『王子様系ってやつ?』
王子様系、という言葉がやけに目に刺さる。
ベッドの上で上半身だけ起こした湊人は、そのログを無言で見つめたまま、しばらく動けなかった。自分の配信アーカイブが、自分の学校生活の会話材料になっている。しかも本人がそのグループの中にいる。
冷静に考えると、かなり妙な状況だ。
いや、妙どころではない。危うい。
鳴海すばるが勢いに任せて貼っただけならまだいい。問題は、それに何人かが実際に食いつき始めていることだった。クラスメイトたちにとっては、ただ“オタク女子がまた推しを共有してきた”程度の出来事なのだろう。けれど湊人にとっては、自分のもう一つの顔が教室の話題として浸透し始める前兆にしか見えない。
「……これは、あまり良くないな」
小さく呟く。
とはいえ、今さらどうにかできるわけでもない。アーカイブを貼るなとも言えないし、見ないでくださいとも言えない。自分が天瀬アルトだと名乗るわけには当然いかない。
つまり今日は、何食わぬ顔で教室に行くしかない。
それが一番難しいのだが。
身支度を整えながら、湊人は改めて自分に言い聞かせる。
平常心。
不自然に反応しない。
鳴海すばるが何を言ってきても、落ち着いて返す。
そして柊坂真白に妙な顔をされても、できるだけ動揺しない。
最後の条件はとくに難しい気がした。
◇
教室に入った瞬間、真っ先に聞こえてきたのは、案の定すばるの声だった。
「だから昨日の雑談回、あそこが良かったんだって! “好きなものの話で少し早口になってたらあたたかく見守ってください”のところ! あれ、完全に神だったから!」
教室の後方で、数人が巻き込まれている。
巻き込まれているという表現が正しいのかどうかは分からないが、少なくとも話し手一人に対して聞き手が複数いる以上、あれは半ば捕獲だろう。
湊人はなるべく気配を薄くして自席へ向かった。
しかし、そんな努力が通じる相手ではない。
「あっ、久瀬くん! おはよう!」
秒で見つかった。
「……おはようございます」
「昨日の見た!?」
「鳴海、朝一でそれ?」
真白が机に頬杖をついたまま、呆れた声を出す。
「朝一だからこそでしょ! 新鮮なうちに感想を共有したいの!」
「共有相手の都合ってものを考えなさいよ」
「考えてるよ。だから久瀬くんには雑談枠から薦めてる」
「考えてないじゃない」
「いや、まだ見ていません」
湊人が答えると、すばるは一瞬だけ固まった。
「見てないの!?」
「昨日は少し帰宅後にやることがありまして」
「また“やることがありまして”だ」
真白が小さく口を挟む。
「そういう言い方、本当に便利だよね」
「便利というより、事実です」
「その事実の中身がふわっとしすぎなのよ」
「……ごもっともです」
真白の視線が少し細くなる。
この“やること”の部分に関しては、もう何度かやりとりをしているせいで、完全に不審点として蓄積され始めている気がする。よくない傾向だ。とはいえ、配信をしていますと白状するわけにもいかない。
するとすばるが、なぜか不思議そうに首を傾げた。
「でもさ、昨日のアルト、なんかちょっと考え込んでる感じなかった?」
「……そうなんですか」
「そう! あったよね! コメント欄でもちょっとざわついてたし。“少し新しい種類の熱量に触れた”とか言っててさ、あれ絶対オタクの話聞いたんだよ」
「いや、それは飛躍じゃない?」
真白が言う。
「飛躍じゃない。文脈がある」
「どんな」
「好きなものを好きだって言える人の勢いがすごいって、あの人そういう表現するの。たぶん身近で何かあったの」
「なんでそんな細かいことまで分かるの」
「見てるから」
「怖」
「解像度が高いって言って」
「ほぼ同じでしょ」
湊人は何とも言えない顔をしながら、それでも心の内側ではひそかに感心していた。
見ている。確かに、すばるは見ている。
配信者としては、そういうリスナーがいることはありがたい。表面だけでなく、言い方や間や、ちょっとした感情の揺れまで受け取ってくれる人。雑談配信を軸に活動する者にとって、それは何よりの財産だ。
だがその財産が、学校での自分にそのまま向かってくると困る。
「久瀬くん、絶対見た方がいいって。昨日の回、かなり“らしさ”出てたから」
「らしさ」
「うん、王子なのにちょっと人間味出るとこ」
「どういう評価なんだそれ」
真白が呆れる。
「いい評価だよ? 完璧すぎないところがまたいいの」
「へえ」
「真白、昨日の見た?」
「見てない」
「えっ、グループに貼ったのに?」
「だからって見るとは限らないでしょ」
「もったいな!」
「アンタの熱量でちょっと疲れたの」
「ひど」
いつの間にか、真白もかなり自然にこの会話へ入るようになっていた。
最初は露骨に興味がなさそうだったのに、今は“すばるの推し語りをうるさいと思いながらも聞いている人”くらいにはなっている。これは、思っているよりよくない。
教室で自分の配信の話が日常の一部になるのは、避けたい。
できればかなり避けたい。
だが現実は、その願いと逆方向へ進んでいた。
◇
午前中の授業は、表面上は平穏だった。
英語で教科書を読む。現代文で筆者の意図を考える。数学で小テストの返却があり、周囲が一喜一憂する。そうした、ごくありふれた学校の時間が流れていく。
その間にも、教室の空気の中には少しずつ自分の居場所ができ始めていた。
日野はいつも通り気軽に話しかけてくるし、真白とはもはや“朝に一言も喋らない方が不自然”くらいの距離になっている。すばるは相変わらず熱量が高いが、その熱量にも少しずつ周囲が慣れてきていて、会話の起点として機能している。
転校前、湊人は“目立たないように気配を消せばいい”と思っていた。
だが今は、それだけでは足りない気がしている。
学校での関係というのは、気配を消すか、前に出るかの二択ではないらしい。薄くでも存在して、少しずつ人と噛み合っていく必要がある。そうでなければ、逆に浮く。
その“少しずつ噛み合う”感覚を、一番強く実感させられたのが四限後だった。
昼休みに入るやいなや、すばるが机を叩いて宣言する。
「今日のお昼、特別講義をします」
「なにを」
「天瀬アルト入門・初級編」
「やらない」
真白が即答する。
「えー、なんで!」
「なんでって、また始まるからでしょ」
「始まるよ? でも今日はちゃんとテーマ絞るから!」
「絞るってなに」
「“返しの美学”」
「いや知らないわよ」
「大事なんだって。アルトって、ただ優しいだけじゃないから」
「鳴海」
「なに?」
「その理屈、たぶん久瀬にだけ妙に刺さってるわよ」
「えっ?」
突然話を振られ、湊人はたまごサンドを持ち上げかけた手を止めた。
「……そうでしょうか」
「そうじゃない? なんかアンタ、鳴海の話になると困ってるくせにちゃんと聞くし」
「え」
すばるがきらきらした目で寄ってくる。
「それ、脈ありってこと?」
「何に対する脈ですか」
「推しに対する脈」
「恋愛みたいに言わないで」
真白が半眼になる。
「でも大事でしょ。推しと出会うのって人生の転機だし」
「重い」
「重くない。愛」
「その言い方、だいぶ危ないわね」
「大丈夫、合法な愛だから!」
何がどう大丈夫なのか分からないが、すばるの勢いは止まらない。
結局、その日も三人で購買へ行き、三人で窓際へ移動する流れになった。もはや自然な昼の形として定着しつつある気がする。とてもよくない。よくないが、居心地は悪くないのがさらに困る。
「で、“返しの美学”って何なんですか」
自分でも少し不用意だと思いながら、湊人は聞いてしまった。
「聞いた! 今聞いたよね!?」
「いや、話の流れで」
「流れでも聞いたことが尊い」
「尊いの基準が本当に分からない」
真白が呆れながら牛乳パックを開ける。
すばるは待ってましたとばかりに、スマホを構えた。
「まずね、アルトってお姉さん系の先輩にも強めの男子ライバーにも、真正面からぶつからないの」
「ふうん」
「でも逃げない」
「……はい」
「そこが美しいの。たとえばちょっと危ない話題振られても、“先輩、それを今ここで言うと皆さんが誤解してしまいますから”とか、“嬉しいですけど今日は穏便にいきましょうか”みたいに返すの」
「へえ」
真白が珍しく素直に相槌を打つ。
「それで笑いになるの?」
「なるの! しかも相手の顔も立つし、自分も崩れないの。優しいだけじゃなくて、ちゃんと会話の主導権持ってるのが良いの!」
「なんかすごい分析してる」
「でしょ!?」
「いや褒めてない」
「でもすごいでしょ」
「そこは認める」
真白とすばるのやりとりを聞きながら、湊人は内心少しだけ居心地の悪い温かさを感じていた。
そこまで見てくれていたのか、という照れ。
それを学校で聞かされていることへの気まずさ。
そして、そんなふうに語られる“天瀬アルト”と、今ここでたまごサンドを食べている“久瀬湊人”の落差。
配信では上手に笑える。
ちゃんと返せる。
場を整えられる。
けれど学校では、同じようにはいかない。
「アンタもそういうとこあるわよね」
不意に真白が言った。
「え?」
「たまに。なんか、雑に扱われてもそのまま雑に返さないとこ」
「それは……どういう」
「上手にかわすっていうか。否定もしないし、乗りすぎもしないし」
すばるが勢いよく乗ってきた。
「そう、それ! 今ちょっと分かった!」
「え?」
「久瀬くん、だからアルトみがあるんだ」
「またそれですか」
「だって、今日も朝からそうじゃん。私がうるさくても適当に流さないし、真白に刺されても変に怒らないし。会話の受け方が綺麗なんだよ」
「綺麗」
「うん。雑じゃない」
「褒めてるの、それ」
真白が訝しげに聞く。
「めっちゃ褒めてる」
「そう」
「真白は?」
「……まあ、雑に返すよりはいいと思う」
「ほら!」
「いや、なんでアンタが得意げなのよ」
湊人は曖昧に笑ったが、正直かなり危なかった。
ただ声が似ているとか、雰囲気が少し近いとか、その程度ならまだいい。だが会話の受け方や返し方にまで“同じ系統”を見出され始めると、さすがに笑っていられない。
鳴海すばるの解像度は、思っていた以上に高い。
その一方で、真白もまた別の角度から見ている。
すばるは“推しのライバーとの共通点”として。
真白は“ただの地味男子にしては変な違和感”として。
方向は違うのに、見つけてくる場所が似ているのが厄介だった。
◇
放課後、湊人は珍しく少しだけ急いでいた。
今夜は雑談配信ではなく、事務所内で軽い通話企画がある。表向きにはゆるい雑談の延長だが、実際には事務所の空気や人間関係がよく出る枠だ。ファンが好きなタイプの配信でもあり、配信者側としては少し神経を使うタイプの仕事でもある。
つまり、遅れるわけにはいかない。
教科書を鞄へ入れながら、湊人はさりげなく時計を見る。
まだ余裕はある。だが、ここで誰かにつかまると少し危ない。
そう思った矢先だった。
「久瀬くん!」
すばるが呼ぶ。
「はい」
「今日こそアルト見る?」
「鳴海」
真白が低い声を出す。
「アンタ毎日それ聞く気?」
「聞くよ? 大事だから」
「大事すぎるでしょ」
「真白も見れば分かるって!」
「分からなくていい」
「えー」
すばるは不満そうだったが、ふと何かを思い出したように目を見開いた。
「そうだ、今日こはくちゃんも配信あるんだった」
「こはくちゃん?」
真白が聞き返す。
「うちの箱の新人さん」
「“うちの箱”って」
「オタクは推しの所属を身内みたいに言うんだ」
「怖」
「怖くない。愛」
今日もそれを言うのか。
しかしその名前に、湊人の意識は少しだけ引かれた。
小毬こはく。
AstraLink所属の新人ライバー。
共有タイムラインでは何度か名前を見ているし、昨日もマネージャーから少し話を聞いた。デビューからまだ日が浅く、二十万人を超えたばかり。順調ではあるが、本人はかなり真面目で、数字にも緊張にも振り回されやすいタイプらしい。
湊人自身、直接話したことはまだない。
ないが、同じ箱の後輩として、少し気にはなっている存在だった。
「どんな人なんですか」
思わず聞くと、すばるの顔がぱっと明るくなる。
「聞いた! 今、こはくちゃんに興味持ったよね!?」
「いえ、話の流れで」
「その否定の仕方、毎回ちょっと遅いよね」
「そうでしょうか」
「うん。でもまあ興味持つのは正しい判断。こはくちゃんはね、アルトとはまた違う方向で良いの。ふわっとしてて、ちょっと緊張しいで、頑張ってるのが分かる感じ」
「ふうん」
真白もまた何となく聞いている。
「まだ新人?」
「そう。デビューしてそんなに経ってない。でもちゃんと伸びてるよ。歌も優しいし、雑談も少し危なっかしいけど、そこがかわいいの」
「危なっかしいのがかわいいって、だいぶ守りたくなる系?」
「そうそう! アルトが“安心して見ていられる王子”なら、こはくちゃんは“応援したくなる努力家”」
「へえ」
その表現に、湊人は内心で少しだけ頷いた。
実際に見たわけではないが、共有されている情報や、先輩たちの話から受ける印象とも近い。鳴海すばるは本当に見ている。推しだけでなく、その周辺や箱の空気まで、ちゃんと解像度高く見ている。
「じゃあ今日は、そのこはくさんを見るべきなんでしょうか」
湊人が何気なく聞くと、すばるは一瞬だけ真顔になった。
「いや」
「え」
「久瀬くんは、まずアルト」
「なんで」
「入口が大事だから」
「入口」
「うん。いきなり箱の多方面へ行くと迷う。まずは本命」
「本命って言い方」
真白が呆れる。
「いやでも大事なんだって。入口を間違えると沼の深さが変わるから」
「沼の深さを管理しようとしないで」
湊人は思わず笑ってしまった。
その笑い方に、すばるがぴたりと動きを止める。
「……なに」
「え?」
「今の笑い方」
「どうかしましたか」
「なんか」
「なんですか」
「……ちょっとだけ、配信の時っぽい」
一瞬、空気が止まる。
言われた瞬間、自分でも分かるくらい心臓がひやりとした。
真白も小さく目を細める。
「配信の時?」
「うん。アルトが、変に大声で笑わないで、ちょっと肩の力抜いて笑う時あるじゃん。あれに似てた」
「鳴海、それさすがに病気」
真白が半分本気で言う。
「いや、分かるんだって!」
「分からなくていいわよ」
「でも似てたの!」
「鳴海さん」
湊人はなるべく平静を保って言った。
「はい」
「それはたぶん、気のせいです」
「……うーん」
「気のせいだと思います」
「二回言うと逆に怪しい」
「いや、本当に」
「ほら、今の“本当に”もなんかそれっぽい!」
まずい。かなりまずい。
さすがに、今の反応は自分でも不自然だったかもしれない。焦ると、かえって普段の配信時の“落ち着かせるための言い方”が出る。学校ではそれを出してはいけないのに、こういう時ほど出てしまう。
その場にいた真白が、少しだけ考えるような顔をした。
それが一番怖い。
だが幸い、すばるはそこで本気の確信へまでは至らなかったらしい。首を傾げながらも、すぐに「まあいいや」と流した。
「でもやっぱり一回ちゃんと見てほしいなあ」
「……検討します」
「またそれ」
「本当に検討しています」
「でた」
真白が呆れる。
「その“本当に検討しています”って言い方、日常でそんな使う?」
「使ってる人がここにいます」
「そういう問題じゃないのよ」
なんとか会話が別方向へ流れてくれて、湊人は内心で静かに安堵した。
危なかった。
本当に危なかった。
◇
家に帰りつくと、湊人はいつもより早く部屋へ入った。
鞄を置き、制服を脱ぎ、機材の前へ座る。学校から配信への切り替えは、慣れてきた部分もあるが、今日のように学校側で危ない会話があった日は少し時間がかかる。
鏡に映る自分の顔を見る。
学校の久瀬湊人。
配信の天瀬アルト。
大きく化粧を変えるわけでも、顔を隠すわけでもない。VTuberとしてはアバターを介している以上、現実の顔がそのまま露出することはない。だからこそ、声や言い方や、間の取り方の方が、よほど正体へ繋がりやすい。
「……鳴海さん、侮れないな」
机の上のスマホが震える。
事務所の共有チャットだ。
『本日21時、軽めの箱内通話企画あります』
『参加者:緋月セレナ、音無ハル、天瀬アルト』
『状況見て途中で星詠エルザも合流予定』
『新人・小毬こはくは見学のみ』
こはくは見学のみ。
その一文を見て、湊人はほんの少しだけ目を留めた。まだ箱内の大人数通話に本格参加する段階ではないのだろう。デビュー直後の新人なら自然だ。無理に前へ出すより、まずは空気に慣れた方がいい。
通知の直後、別のメッセージも来る。
『アルト、今日も緋月先輩の距離感強めかもしれないのでよろしく』
マネージャーからだった。
湊人は思わず苦笑する。
緋月セレナ。
大人っぽく妖艶で、箱内でもかなり人気の高い先輩ライバー。場の盛り上げ方がうまく、後輩いじりも巧みで、しかも相手の反応を楽しむ節がある。要するに、気を抜くと距離を詰められてそのまま笑いの渦へ持っていかれるタイプだ。
だから、やんわりかわす必要がある。
鳴海すばるが昼に熱弁していた“返しの美学”は、こういう相手と絡む時に最もよく出る。
そして今日は、その“返し”を学校で怪しまれた直後だ。
「タイミングが悪いな……」
だが、仕事は仕事だ。
待機画面の確認、音声調整、通話環境のチェック。そうしたいつもの作業をしていくうちに、思考は少しずつ学校から配信へ寄っていく。
画面の向こうには、多くのリスナーが待っている。
その中にはおそらく、鳴海すばるもいる。
そして今日は、こはくも見学しているかもしれない。
まだ会ったことのない後輩。
でも同じ箱で、同じように夜の向こう側にいる人。
配信ボタンを押す前、湊人は一つだけ深く息を吸った。
◇
『はーい、みんなこんばんは〜! 今夜も始まりました、AstraLinkゆるっと夜更かし通話会〜!』
先に入っていた緋月セレナの明るく艶のある声が響く。
『セレナ先輩、タイトル長いですって』
音無ハルが笑う。
『えー、いいじゃない。雰囲気でしょ?』
『雰囲気で仕事しないでくださいよ』
『そこに文句言うの絶対ハルくんだけなんだけど』
『いやでも視聴者も思ってるって!』
にぎやかな会話が始まっているところへ、湊人――天瀬アルトは通話へ入る。
「こんばんは、お疲れさまです。天瀬アルトです」
『来たわね、王子』
『きたきた!』
『待ってました〜!』
コメント欄が一気に流れる。
『アルトくんきた!』
『王子〜!』
『箱の安定剤』
『このメンツ好き』
『助かる』
「皆さん、こんばんは。今夜もよろしくお願いします」
声を出した瞬間、さきほどまで学校で警戒していた自分が、少しずつ遠のいていくのが分かる。ここでは言葉を選ぶこと自体は同じでも、その使い方が違う。学校では“普通らしく見せるため”に言葉を整える。配信では“相手に届くように”言葉を整える。
だからずっと自然だ。
『アルトくんさあ』
セレナが、いかにも何か面白いものを見つけた時の声を出す。
『はい、何でしょう』
『今日も相変わらず完璧に入ってくるのね。そういうとこほんとずるいわ』
『先輩の方が、最初から十分華やかですよ』
『ほら、そういう返し。今みんな喜んだわよ』
『コメント欄が湧いてますね』
ハルが笑う。
『やめろって! 俺が言う前に拾うな!』
「ハルさんは分かりやすく声に出ますから」
『ほらこれ! この“分かりやすく”の言い方、優しいのに逃げ場ないんだよ!』
『ふふ、ほんとそうねえ』
セレナが楽しそうに笑う。
『でも、そういうところが人気の理由なんでしょうけど』
「先輩、それを今ここで言うと、皆さんがまた面白がってしまいますから」
『もう面白がってるわよ?』
「でしたら、これ以上材料を増やさない方が賢明かと」
『きゃー』
『でた、綺麗な回避』
『王子〜!』
『返しうますぎる』
『これが好き』
コメント欄が一気に流れる。
学校でなら、こうはいかない。
真白に刺されれば少し間が空くし、すばるに詰められると内心かなり焦る。だがここでは、危うい話題ほどきれいに受けて流せる。
セレナはそこでさらに畳みかけてきた。
『でも私、たまにはアルトくんが困るところも見たいのよねえ』
「困ってはおりますよ、今も」
『えー、全然見えない』
「見せない努力をしておりますので」
『ほらあ! またそうやって余裕あるふりする!』
『いや、セレナ先輩それもう半分いじめですよ』
ハルが笑いながら言う。
『いじめてないわよ、かわいがってるの』
「ありがたいことです」
『ほんとにそう思ってる?』
「皆さんの前では穏便にお答えしておきます」
『もうやだ、この子ほんとに綺麗に逃げる』
『わかる』
『ここ好き』
『セレナ先輩との掛け合い神』
湊人は口元に小さく笑みを浮かべた。
配信では、こうして場を回せる。
ちょっと危うい流れも、相手を立てたまま受け流せる。
コメント欄の期待も読めるし、先輩後輩の距離感も調整できる。
その感覚は、もはや身体に染みついたものだった。
昼間、鳴海すばるが語っていたことを思い出す。
“優しいだけじゃなくて、ちゃんと会話の主導権持ってるのが良いの!”
あの時はむず痒さの方が勝っていたが、今この場で実際に返しながら思う。
なるほど、たしかにそう見えているのかもしれない。
しばらく通話が続き、星詠エルザが短く合流したり、ハルがゲームで情けない失敗をしてセレナに笑われたりと、箱内らしい賑やかさが流れる。その最中も、アルトとしての自分は安定していた。
新人のこはくも、この空気を見学しているのだろうか。
ふとそんなことを思った時、通話とは別の内部メッセージ欄に、小さな通知が入る。
『小毬こはく:見学失礼しています。皆さんの空気の作り方、すごく勉強になります』
短い、きちんとした文章だった。
湊人はそれを視界の端で見て、少しだけ表情を和らげる。
真面目そうだ、と思った。
そして少し張りつめてもいそうだ、とも。
通話の本筋には出てこないまま、こはくの存在だけが静かにそこにある。それが妙に印象に残った。
◇
配信が終わった後、自室に戻った静けさの中で、湊人はしばらく椅子に座ったまま動かなかった。
学校の僕と、配信の僕。
同じ一日を生きているのに、その二つは驚くほど温度が違う。
学校では目立たないようにしているはずなのに、少しずつ人が寄ってくる。
配信では最初から大勢に見られているのに、不思議と落ち着いていられる。
「……やっぱり、こっちの方が上手く笑えるな」
ぽつりと口をつく。
教室で笑う時、自分は少しだけ様子をうかがっている。
変じゃないか。浮かないか。今の反応でよかったか。
そうした調整が、無意識に入る。
でも配信では違う。
もちろん計算はあるし、気遣いもある。だがそれは“隠すための調整”ではなく、“届かせるための調整”だ。
だから、ずっと楽だ。
楽なのに、昼間に思い出すのは、教室の窓際での他愛ない会話だったりする。
真白の呆れ顔。
すばるの早口。
日野の軽口。
そして、あの場所に少しずつ自分の席ができていく感じ。
それは配信とは別の、静かな居場所のようでもあった。
スマホが震える。
クラスの連絡グループだ。
『今日の箱内通話やばかった』
すばるのメッセージ。
『セレナ先輩とアルトの掛け合い、返しが芸術だったんだけど』
『また始まった』
『お前ほんと好きだな』
『転校生もこれ見れば分かるって』
『真白、さすがに今日は見た?』
湊人は思わず額を押さえた。
早い。
本当に早い。
そして少ししてから、真白の短い返信がつく。
『見てない』
即答だった。
なぜか少しだけ安心してしまう自分がいる。
見られたら困る。
でも、いつか見られるかもしれない。
その緊張の中で、“今日はまだ大丈夫だった”と思ってしまうのは、もうかなり感覚が麻痺しているのかもしれない。
そのままログを閉じようとして、もう一つ、別の通知に気づいた。
AstraLinkの内部チャット。
送り主は、小毬こはく。
『天瀬アルトさん、本日は通話でのお声かけや返し方、とても勉強になりました。直接ご一緒したことはまだありませんが、いつかきちんとご挨拶できたらうれしいです』
丁寧で、少し緊張が伝わる文面。
湊人は画面を見つめたまま、小さく息をついた。
「……挨拶、か」
まだ会ったことのない後輩。
でも同じ箱にいて、同じ夜を見ている。
学校では、自分の配信を見ているかもしれないクラスメイトがいて。
配信の向こうでは、まだ会ったことのない事務所の後輩が、自分の返しを勉強している。
世界が少しずつ繋がり始めている。
自分が望んだ形ではなくても、確実に。
湊人は少しだけ考えてから、こはくへ短く返信した。
『こちらこそ、お疲れさまでした。見学も立派なお仕事の一つですから、気負いすぎず、ご自身のペースで大丈夫ですよ。ご挨拶できる機会、楽しみにしています』
送信する。
その言葉は、天瀬アルトとしてなら自然に出てくる。
もし久瀬湊人として学校で誰かに同じ温度で言えば、また“変だ”と言われるだろう。
画面を閉じ、ベッドに横になる。
明日も学校がある。
そして明日もまた、自分は地味な男子高校生として教室へ入る。
だけどもう、その教室の中には、配信の僕へ近づくいくつもの糸が垂れている。
鳴海すばるの解像度。
柊坂真白の違和感。
そして、まだどこか遠い場所にいるはずの新人ライバー、小毬こはくの存在。
学校では地味でいたい。
配信では人気でいなければならない。
さらに、まだ誰にも言えない隠し事まである。
そんな自分の青春ラブコメは、たしかに最初から難易度が高いのだろう。
しかも困ったことに、その難しさは少しずつ面白くなり始めていた。
倉科紬希は、基本的に自分から流れを変える側の人間ではない。 誰かの提案に頷くことはできる。 必要なら静かに手を貸すこともできる。 でも、場の進み方そのものを変える一言を、自分から先に置くのは少し苦手だ。 たとえば昼休みにどこへ行くかとか、 帰りに寄り道するかとか、 そういう小さな選択肢ですら、誰かが先に言ってくれた方が楽だった。 それなのに最近は、その“先に言う”を少しだけしなければならない場面が増えている。 久瀬湊人のことになると、とくに。 弱っている時は飲み物を渡したくなるし、 しんどそうなら「無理しないで」と言いたくなるし、 学校の外の嫌な気配が近づいているなら、「一人にならない方がいい」とも思う。 思うだけで終われば、今までの自分のままだった。 でも、最近はそれを口にしないでいる方が、もっと落ち着かない。 好きだから、という言葉にしてしまえば簡単なのかもしれない。 でも紬希の中では、それはまだ少しだけ照れくさくて、少しだけ怖い。 ただ一つはっきりしているのは、 “守りたい時だけ、少しだけ勇気が出る”ということだった。 ◇ 水曜の朝、教室へ入る前から、紬希は少しだけ緊張していた。 理由は昨日の共有だ。 すばるが気づいた、校門の外の視線の質。 本人だけでなく、誰とどういるか、どう帰るか、そういう人間関係ごと見られているかもしれないという話。 その認識が入ってしまったあとでは、昨日までと同じ“ただ一緒に帰る”ではいられない。 少なくとも自分の中では。 もし本当に見られているなら、 誰かが一人になる瞬間とか、 帰り道でばらけるタイミングとか、 そういうところが一番危ないのではないか。
鳴海すばるは、自分の観察眼をあまり立派なものだと思ったことがない。 便利だとは思う。 でも、便利な方向がだいぶ偏っている。 配信中に推しの声がいつもより少し低いとか、 コラボ相手に対する距離感がちょっとだけ違うとか、 笑い方のあとに一拍だけ沈黙が入ったとか。 そういう、“普通の人はそこまで見ないだろ”みたいなところばかりを拾ってしまう。 だから学校生活でその能力が役に立つかというと、微妙だった。 テストの傾向を読むとか、 先生の機嫌を察するとか、 そういう一般的な方向へは、そこまで強くない。 なのに今、なぜかその観察眼が、一番ありがたくない形で役に立ち始めている。 校門の外の知らない大人たち。 入れ替わり立ち替わり現れる“学校に似合わない静けさ”。 そして、その人たちがどういう時間帯に、どんな位置で、誰を見るように立っているか。「……なんで覚えてるんだろ」 火曜の夜、自室のベッドに転がりながら、すばるは天井へ向かって呟いた。 答えはわりと分かっている。 好きなものを見る時のクセと、たぶん同じなのだ。 気になる対象がいて、その周辺の変化が日常の一部になると、勝手に目と耳が記録を始める。 それが推しに向く時は楽しい。 でも、学校の外の不審者っぽい大人たちに向く時は、ただただ面倒だ。「オタク能力の使いどころ、間違ってない?」 誰にも聞かれない部屋でそう呟きながら、それでも頭の中ではすでに整理が始まっている。 昨日の男は、火曜の朝は歩道の左。 月曜の黒い車は少し遠め。 教室まで来たスーツ男は、相馬系じゃない。 そして今朝のやつは、通学の
柊坂真白は、違和感に対してわりと執念深い。 別に探偵気質というわけではないし、何でもかんでも白黒つけたいタイプでもない。 でも、毎日の中で妙に引っかかるものがあると、それを“まあいいか”で流すのが苦手だった。 誰かの声色がいつもと違うとか、 提出物の期限を誤魔化している顔をしているとか、 言葉は平然としているのに、目だけが妙に忙しいとか。 そういうのは、見えてしまう。 見えてしまうと、頭の片隅にずっと残る。 だから今の久瀬湊人に対しても、真白の中にはいくつもの引っかかりが並んでいた。 文化祭の日の非常階段。 打ち上げの日に来られなかったこと。 教室まで来たスーツの男。 校門の外を見ている知らない大人たち。 そして、その全部のあとで、それでも学校へ来て、窓際に座って、何事もない顔を作ろうとする久瀬の横顔。 ここまで並べると、もう“なんかある”では済まない。 済ませたくないというより、済まないとしか思えない。 しかも真白にとって一番腹が立つのは、秘密の正体そのものより、異常事態を異常事態として扱わないまま隣の席に座ろうとする、その無茶の方だった。「……ほんと面倒」 朝、駅から学校へ向かう道を歩きながら、真白は小さく呟いた。 問い詰めたいわけじゃない。 何を隠しているのか、今すぐ全部吐けとも思わない。 でも、“何かあっても言わずに一人で何とかしようとする”のだけは、さすがに放っておきたくない。 それが親切心なのか、 責任感なのか、 ただ単に隣の席の人間として気持ちが悪いのか、 そこは自分でもまだよくわからない。 ただ一つわかるのは、前みたいに「知らないから関係ない」で切れなくなっているということだった。
翌日から、校門の外にある“視線”は、妙に現実味を帯びてそこに居座るようになった。 最初は気のせいかと思った。 昨日の夕方、校門の向こうに立っていた、あの黒っぽいコートの男。 家側の人間とも違う。 相馬たちみたいな、洗練された“身内の静けさ”ではない。 もっと乾いた、もっと公的で、だからこそ遠慮のない気配。 だが火曜の朝、登校してすぐにその違和感は気のせいではなくなった。 校門から少し離れた歩道。 通学の流れから一歩だけ外れた位置。 昨日と同じ男ではない。 けれど、似たような立ち方をした別の男がいる。 地味なジャケット。 手にはスマホ。 でも、画面を見ているふりをしながら、意識のほとんどは学校の出入りへ向いている。 そういう視線だ。「……本当にやめてくれ」 久瀬湊人は心の中で小さくそう呟いた。 ただ見ているだけ。 ただ校門の外に立っているだけ。 それだけなのに、妙に空気が冷える。 学校という場所は、本来もっと雑多で、ゆるくて、誰かの視線に一々輪郭を与えないくらいには無防備な場所のはずだ。 なのに、外から“目的を持って見ている目”があるだけで、その無防備さは一瞬で不安定になる。 そして今の湊人には、それが自分絡みである可能性が高いことも分かってしまっている。 家側ではない。 少なくとも相馬たちの動きではない。 だとすると、もっと別の線だ。 それが何より嫌だった。 家側ならまだ、こちらにも言い返す窓口がある。 配信側ならまだ、マネージャーへ相談できる。 だが、正体の分からない“公的な匂い”には、動き方そのものが読みづらい。 しかも最悪なの
月曜の放課後、教室の窓から差し込む光は少しだけやわらかい。 文化祭の熱も、 打ち上げの余韻も、 教室へ入ってきたスーツの男の嫌な気配も、 それぞれがまだ完全には消えていないのに、時間だけはちゃんと前へ進んでいる。 その“前へ進んでしまった感じ”を、久瀬湊人は最近ずっと不思議に思っていた。 もう少し、壊れると思っていたからだ。 文化祭の非常階段。 数秒だけ聞かれた声。 打ち上げに行けなかった夜。 教室の中へ踏み込んできた学校の外の人間。 どれも、本来ならもっと大きく何かを崩してもおかしくなかった。 少なくとも、窓際の空気はもっと気まずくなってもよかったはずだ。 それなのに、完全には壊れなかった。 前と同じではない。 でも、残っている。 しかもその残り方は、以前より少しだけ深い。 誰も正体は知らない。 誰も全部は分かっていない。 それでも、“ここを壊したくない”だけは、もうかなり共有されてしまっている。 その事実が、最近の湊人には一番重くて、一番ありがたかった。 ◇ その日の昼休み、窓際の一角は妙に静かに落ち着いていた。 日野が購買のパンを半分こぼしながら食べ、 すばるが「食べ方終わってる」と笑い、 真白が「机汚すな」と冷たく刺し、 紬希がティッシュを差し出す。 たったそれだけの、なんでもない流れ。 でもその“なんでもなさ”が、今は少し特別だった。 こういう普通を、最近は前よりちゃんと守ろうとする空気がある。 誰か一人が頑張るのではなく、五人全員が少しずつ。「そういえば」 日野がパンを飲み込みながら言う。「来週、写真共有
柊坂真白は、自分が“わからないものをそのままにしておく”のが得意な人間ではないと思っていた。 曖昧な返事は嫌いだし、 来るのか来ないのか分からない予定も嫌いだし、 何かを隠されたまま振り回されるのも、もちろん嫌いだ。 だから本来なら、久瀬湊人みたいな人間とは相性が悪いはずだった。 何か言えない事情がある。 時々急に遠くなる。 でも来たい時だけはちゃんと来たそうな顔をする。 そういう、“全部は見せないくせに、気持ちの一部だけは見えてしまう人間”なんて、いちばん面倒な部類だ。 少し前までの真白なら、そこで切っていたと思う。 面倒だから距離を取る。 わからないものはわからないまま、あっちで勝手にやって、と。 でも今は、そうなっていない。 文化祭の非常階段で、何か外の顔があることを感じた。 打ち上げの日に、来たかったことだけは本当だと知った。 教室へ入ってきたスーツの男で、外側の重さが学校まで食い込んでくることも見た。 そこまで見たあとで、問い詰めたところで何かが楽になるとは思えなかった。 むしろ逆だ。 問い詰めれば、この人はたぶんもっと困った顔をする。 それを見たところで、自分だって気分が悪い。 だから最近の真白は、少しずつ別の方を選び始めている。 聞かなくても隣にいる。 知らないままではないけれど、今は聞かない。 その代わり、倒れそうな顔をしていたら刺すし、無理をしていれば止める。 そういう、半端にやさしいことを、気づけばずっとやっている。「……ほんと、私らしくない」 朝、制服のリボンを整えながら小さく呟く。 でも、らしくないと思いながら、それをやめたいとも思わない。 それがたぶん、